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Wednesday, January 10, 2018

ロヒンギャ問題:南アジアの多数派優位主義の歴史 Murderous Majorities by Mukul Kesavan, New York Review of Books

 ロヒンギャ問題をミャンマー人が語るとき、ロヒンギャへの頑なな憎悪に驚かされることがある。この背後には、仏教徒多数派が長年にわたって国民の間に醸成してきた多数派優位主義的感情がある。
 多数派優位主義の中では、多数派の政治的基盤を固めるために少数派の迫害を利用する。大虐殺が起きるたびに、多数派優位主義の政党が勢力を伸ばしていく。このような動きがミャンマーだけでなく南アジアの各国で繰り返し起きてきたことは、歴史をひもとけば明らかだ。
 ガンジーが夢見ていた「一つのインド」は実現せず、パキスタンとインドに分割されて独立したこと自体が、少数派になりたくないというイスラム教徒の望みから出たことだった。インドは独立後しばらく多数派優位主義に抵抗していたが、1983年のアッサム州ネリーのイスラム教徒虐殺事件以後くりかえし起きる大虐殺をきっかけに、多数派優位主義へと突き進んできた。今ではほとんど全ての南アジア諸国が宗教的多数派優位主義の政治体制になってしまった。
 ミャンマーは仏教徒が多数を占めたが、その中に英領インド時代から何世代も住んでいるイスラム教徒を抱えている。イスラム教徒であるロヒンギャを国民と認めないことで選挙権を剥奪し、議会にイスラム教徒が一人もいない状態を実現したのは、皮肉にも民主化プロセスの中で起きたことだった。
 今もロヒンギャの脱出は止まらず、バングラデシュ領内に難民となったロヒンギャの行き先が見つかったわけでもない。だが世界の人々がロヒンギャ問題を忘れ、ロヒンギャ問題の報道が沈静化すれば、ミャンマーの多数派優位主義者は我が意を得たりと勢いづくことになる。その意味でも、この問題に関心を向け続ける必要がある。
 ふり返って日本を見れば、安倍政権が振りまく排外主義的言動とポピュリズムが、南アジアの多数派優位主義と重なって見える。これは全世界的現象なのだろうか、あるいは国民国家というシステムが抱える根本的な問題なのだろうか。

 定評ある書評誌ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス2018年1月 18日号掲載に掲載された歴史家ムクール・ケサバンの書評『Murderous Majorities』を翻訳して紹介する。
 ムクール・ケサバンはニューデリーの大学ジャーミア・ミリア・イスラーミアで植民地時代のインド史を教えている。

原文はこちら。
(注:翻訳はアップ後微修正することがあります。)
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多数派が殺意を抱くとき


ムクール・ケサバン


『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』
アジム・イブラヒム著、ムハマド・ユヌス序文
ハースト刊、改訂新版、239ページ、£12.99 (ペーパーバック)

『ミャンマーにおけるイスラム教と国家:イスラム教徒・仏教徒間関係と帰属の政治』
メリッサ・クラウチ編
オックスフォード大学出版局刊、345ページ、$55.00


 ロヒンギャはイスラム教徒のコミュニティーで、その居住地はミャンマー西部ラカイン州の北部に集中している。ラカイン州にはイスラム教徒が何千年にもわたり暮らしてきたが、その人口は植民地時代に英領インド、特にベンガル地方からの移住によって著しく増えた。最近バングラデシュへの集団強制移住が起きる前は、ミャンマー国内のロヒンギャ人口は百万人を少し上回ると推計されていたが、この数字は論争の的になっている。政府はロヒンギャを正当な呼び名と認めたくなかったので、最新の国勢調査にはロヒンギャが含まれていなかった。ミャンマーの軍部指導者が1978年と1990年代初頭、2012年に実施した「一掃作戦」のとき近隣のバングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民を含めると、総人口はもっと多くなりそうだ。

 ラカイン州とミャンマー全土には他にもイスラム教徒のコミュニティーがあるが、唯一暴力的差別の的にされてきたロヒンギャとは、文化的・民族的に異なる。ロヒンギャの方言ははっきり異なり、民族的に「よそ者」だ。ラカイン州北部に集まって住んでいることが組み合わさると、ミャンマー指導者の目に映るロヒンギャは、同化不可能で、仏教国を自認するこの国の統合に対する脅威だ。

 2017年8月の末に、ロヒンギャ過激派がラカイン州北部でナイフと手製爆弾を使って警察署を襲った。12人の治安部隊員が殺された。ミャンマー軍はロヒンギャの村々への焼き討ちで報復し、民間人の殺害とレイプを行い、50万人以上のロヒンギャを、バングラデシュに逃げざるを得ない状況へ追い込んだ。

 この民族浄化の規模こそが、南アジアにおける多数派優位主義政治の、最も高らかな勝利を表している。ロヒンギャの迫害のおかげで、ミャンマーは近隣諸国の多数派優位主義政党にとって、お手本ともいえる存在になった。ヒンドゥー教国家主義のインド人民党(BJP)が率いるインド政府は8月中旬、インド国内にいる4万人のロヒンギャ(以前の集団脱出による難民)は不法移民だから強制送還すると発表した。9月初めに、ミャンマー軍による「一掃作戦」の凶暴性が知られるようになり集団脱出の規模が明らかになった後でさえ、ナレンドラ・モディ政権では誰一人として声を上げず、一国の政府がしばしば蔓延する人間の苦悩を認めるために使う形式的な憂慮の表明さえ行われなかった。

 多数派優位主義(国家の政治的運命は宗教的あるいは民族的な多数派が決定すべきだという主張)は、南アジアの国民国家と同じくらい古くからあり、脱植民地化の原罪だ。植民地独立後の南アジア諸国は、程度の差はあれ大筋では多元的で非宗教的な国家という理想を掲げて出発したが、独立から約10年を経て、軍部指導者に権力を奪われるか、多数派優位主義政治家によって宗教国家に変貌した。

 パキスタンはイスラム教徒が多数派の国を作るため英領インドから切り出された。建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーは時に非宗教的国家の考えを支持するかと見えたものの、1947年インド分割(インド・パキスタン分離独立)の時の大量虐殺ともいえる暴力の結果、同国から非イスラム教徒の少数派を事実上排除してしまった。短命に終わった1956年憲法で、パキスタンは自国を正式にイスラム共和国と定義し、以後60年以上にわたって続いている。

 スリランカ(当時のセイロン)は、1948年に非宗教的国家として建国されたが、1956年までにシンハラ人仏教徒の政治家が押し切る形で仏教共和国と再定義され、仏教徒多数派の言語であるシンハラ語を唯一の国語に定めた。この多数派優位主義の動きは、同国の北部と東部に集中する相当数の非仏教徒少数派であるタミル語の話者を隅に追いやることを狙ったものだった。パキスタンから1971年に独立を勝ち取ったバングラデシュは、ベンガル語を話す非宗教的な国として建国されたが、1975年のクーデターの後、軍事政権がイスラム共和国へと変えてしまった。(最高裁判所が2010年に世俗主義を回復したが、イスラム教はバングラデシュの公式宗教のまま残った。)

 ミャンマーを第二次世界大戦後にイギリスから独立させ1947年に暗殺されたアウンサン将軍は、非宗教的な共和国を思い描いていた。しかしミャンマーを独立国家として確立した1948年の憲法は、ほとんどの少数民族に完全な市民権を与えたものの、ロヒンギャには与えなかった。1950年代を通じて、ウー・ヌ初代首相の政府はロヒンギャコミュニティーの存在を認め、ロヒンギャに市民権を与える見通しを示した。1961年の国勢調査では「ロヒンギャ」を一つの人口分類として認めさえした。ミャンマーの明確な仏教国への変貌は1962年に始まり、軍事政権がクーデターで権力を掌握し、仏教国家主義のイデオロギーを押し付けた。この動きが頂点に達した1982年の市民権法は、ロヒンギャが完全な市民権を得ることを公式に否定した。

 皮肉にも、それは2012年から2017年の民政移行期間に起きた。そのとき同国は民族浄化を通して、また民主的手続きと制度から公式にロヒンギャとイスラム教徒全般を排除することによって、純粋に多数派優位主義の政治形態となった。2012年の暴力は(2017年の民族浄化の前兆だったが)、12万人のロヒンギャをラカイン州北部の街から追放し国内強制移住者のキャンプに閉じ込める結果となった。2014年の国勢調査は「外国人」少数派を排除するように作られたもので、ラカイン州の人口のほぼ3分の1がカウントされなかった。これはロヒンギャがベンガル人イスラム教徒と名乗ることを拒否したためで、もしそれを認めてしまうと、ロヒンギャは外国人であって国民ではないという主張に信用を与えかねないと考えられた。この国勢調査は、2015年に行われる同国初の民主的選挙のための新しい選挙人名簿の作成に使われたが、実質的にロヒンギャから選挙権を剥奪し、結果として独立後初めてミャンマー連邦議会からイスラム教徒が完全に消えた。

 政府はその年、ロヒンギャに保健・教育サービスの権利を与えていた登録カードを没収した。このカードは近年まで選挙権の証でもあったが、選挙権は政権が気まぐれで与えたものだった。またこのカードはロヒンギャが持つ身元や居住を示す唯一の公式書類だった。これらの行政処分により、ラカイン州とミャンマー全体で仏教徒が首尾良く支配権を握った。

 選挙プロセスと連邦議会の両方から重要な少数派が消えるということは、南アジアの多数派優位主義者の積年の果たせぬ夢である全面勝利と同然のものだ。ミャンマー選挙の1年前の2014年に、ナレンドラ・モディがBJPを率いてインド総選挙で絶対多数を取った。モディの多数獲得は、BJPから一人もイスラム教徒の連邦議会議員を出さなかったという点で歴史的だった。だが他党から23人のイスラム教徒がインド連邦議会の下院であるローク・サバー(Lok Sabha)に選出されているので、ミャンマーの議会に一人もイスラム教徒がいないというのは多数派優位主義にとってさらに徹底した勝利だった。インドの右派ヒンドゥー教国家主義政党がイスラム教徒から距離を置くのは驚くことでもないが、ミャンマーでイスラム教徒の候補を一人も立てなかったのは、アウンサンスーチーの党であるリベラル野党の国民民主連盟(NLD)だった。

 NLDがイスラム教徒の候補を排除したのには戦略的な理由があったかもしれない。過激主義者の僧侶が扇動した反ロヒンギャ感情に便乗し、民主制への微妙な移行期間では軍の偏見に従ってラカイン州の仏教徒多数派との敵対を避けるため。あるいはNLD党員の偏見のためだ。その結果、既に立場を脅かされている少数派は政治的に疎外された。イスラム教徒を連邦議会から排除し60万人のロヒンギャを乱暴に追放したミャンマーは2017年、宗教的多数派による政治的支配の達成を確実なものにした。

 アジム・イブラヒム著『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』はラカイン州で起きている悲劇の客観的な歴史を装ったりしない。これは党派心に基づいた本で、読者に訴えているのは悲劇の歴史理解ではなく、その緊急性と洞察だ。長く待たれていた選挙の直後、2015年に完成したこの本は、民主制への移行により、悲劇的にもロヒンギャはさらに排斥された弱い立場に置かれ、NLDと軍が迫害を止めようと動かない限り、追放の可能性がこれまで以上に高まったと警告する。2017年9月の暴力の後で書かれた改訂版ペーパーバックの終章で、イブラヒムはこの予測の正当性の証拠を検討し、「不安定な状況がコミュニティー全体の民族浄化へとエスカレートするのを我々は見ているのだ」と主張する。彼の洞察、特に2015年の民主制移行を扱った部分はこの本を薦めるに十分な理由だ。

 多数派優位主義は別種の市民権を強く主張する。多数派の宗教と文化を持つ者を真のミャンマー国民とみなす。その他は厚意による国民、つまり多数派のゲストであって、礼儀正しく敬意を持って振る舞うことを期待される。あくまで多数派の計らいによって許容されているのであって、近代民主制での完全な市民権に代わるものではない。中ぶらりんの状態で、慢性的に不安定な状態だ。少数派の完全な市民権を否定するような政治形態は、遅かれ早かれ、少数派の政治的権利を奪う。また居住者であっても全く国民とはいえず、実際は別の地域(インド、パキスタン、タミル・ナードゥ州、あるいはロヒンギャの場合バングラデシュ)に属しているという理由で追放する。ミャンマーには3種類の市民権がある。国民、準国民、そして帰化国民だ。ロヒンギャは外国人に分類される。

 1980年代に至るまで多数派優位主義の誘惑に公式に抵抗していた南アジア唯一の国はインドだった。1950年に立憲制共和国として建国され、世界第3位のイスラム教人口を抱える同国は、相当数のイスラム教徒少数派を、完全で対等な国民として扱った。80%がヒンドゥー教にもかかわらず、インドの宗教的少数派はヒンドゥー教文化への同化を求められているというような感覚は、公式にはなかった。この同化を要求した政党は、モディ首相のBJPの政治的祖先にあたるインド大衆連盟(Bharatiya Jana Sangh)のような弱小地域政党だけだった。共和国の建国から25年の間、ジャワハルラール・ネルーと、続いて娘のインディラ・ガンディーの指導の下、インドは憲法の上では非宗教的国家に留まった。

 1970年代末から1980年代初頭に、非常事態を受けて政治的バランスが変化し、インディラ・ガンディーは1975年から1977年まで独裁的統治を試みた。だが新たな政治を形作った要因には大虐殺もあった。1983年に、ベンガル人を祖先に持つ2千人のイスラム教徒が、アッサム州ネリーの街でわずか数時間のうちに虐殺された。(非公式推計は死者数を1万人以上としている。)虐殺を実行した土着のアッサム人はイスラム教徒をバングラデシュからの不法移住者と考え、その名前が選挙人名簿に載っていることを問題にした。当時比較的新しい国家だったバングラデシュは、同情を示さない隣国民から人口輸出をする国と見なされ、こうした移民はベンガル語を話すイスラム教徒のことが多かったので、外見も言葉も「よそ者」として目立った。

 1983年のアッサム大虐殺はインド政治の転機となった。反イスラム教運動をエスカレートさせて大虐殺を起こした学生組織が政党を結成し、次の地方選挙で易々と勝利を収めた。この事件が示したことは、不法移民が深刻な問題であること、ベンガル人イスラム教徒が政治的なスケープゴートにされたこと、そして最も重要なのは、大虐殺が政治的な利益になりうるということだ。

 1984年に、インディラ・ガンディーが2人のシク教徒の警護警官に暗殺された結果、デリーその他の場所で組織的なシク教徒殺しが起きた。彼女の息子ラジーヴ・ガンディーは、この大虐殺後の選挙で大勝し、ネリーの虐殺の教訓が、今度は国家レベルでより強固なものになった。ボンベイ(1992年〜1993年)とグジャラート州(2002年)で続いて起こったイスラム教徒の大虐殺の後には、シヴ・セーナー(Shiv Sena)やBJPのような暴力に加担する政党が選挙で勝利を収めた。公式には少数派の権利剥奪はなかったが、インドの多数派優位主義政党は少数派に対する暴力を煽れば選挙で票が集まることを学んだ。

 多数派優位主義の暴力は南アジア全域で権力への近道となった。ミャンマー、パキスタン、バングラデシュでは、権力基盤の不安定な軍部指導者が国家を宗教的多数派に寄り添わせることで正当性を得ようとし、インドとスリランカでは侵略的な少数派によって国家が転覆されつつあるという考えを広めた先住民優位主義の政党が選挙に勝利した。20世紀の終わりまでに、多数派優位主義政党は全ての南アジア諸国で政権の座に着くか野党第一党になっていた。

 ミャンマーのイスラム教徒と政府の関係を取り上げた論文集『ミャンマーにおけるイスラム教と国家』にベンジャミン・ションサルが寄稿した小論で、ミャンマーにおける仏教徒の多数派優位主義がスリランカにおけるシンハラ人の先住民優位主義とどれほど似ているかを例証し、最近行われたある会合のことを指摘する。それはスリランカのボドゥ・バラ・セーナ(Bodu Bala Sena:仏教の力の軍)と、反イスラムを明言するミャンマー僧が率いる969運動の間で持たれたものだ。969運動で最もイスラム嫌いの説教者として知られるアシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu)が2014年の末にコロンボを訪れ、ボドゥ・バラ・セーナと969運動の相互理解に関する覚え書きに署名した。両国の国民は「より広い地域的な枠組みの中で自分たちの行動を見はじめている」ことをションサルは示す。

 論文集の別の小論でニーニー・チョー(Nyi Nyi Kyaw)は、969運動の政治運動と、インドの民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh)やBJPのようなヒンドゥー狂信的愛国主義者組織の政治運動とを比較した。高いとされている男性イスラム教徒の生殖能力と、一夫多妻の風習は、ミャンマー仏教徒の将来にとって脅威と見なされる。ここでの主張は、イスラム教徒の男性が「愛のジハード(聖戦)」を仕掛けているというものだ。イスラム教徒の男性が仏教徒の女性を誘惑するのは「生殖戦術のためだ。やつらはたくさん子どもを作り、雪だるま式に殖える」と、969運動の僧アシン・ウィマラール・ビウンタ(Ashin Wimalar Biwuntha)が非難したことを、チョーは指摘する。

 「愛のジハード」や「ロメオのジハード」という言葉は、ヒンドゥー教の頑迷さを示す語彙から直接取ってきたものだ。BJPとその党員は「愛のジハード」を実践するいわゆる侵略的イスラム教徒との戦いに全力で取り組み、街角の自警団が「反ロメオ隊」を組織している。インドで最も人口の多いウッタル・プラデーシュ州の首相は、ヨギ・アデッテナート(Yogi Adityanath)というヒンドゥー教の僧で、ヒンドゥー教青年軍(Hindu Yuva Vahini)という私的な民兵組織を何年にもわたって養い、この実体のない敵に対する戦いを続けている。じっさい、彼が2016年に州首相に選出された最大の理由は、「ヒンドゥー教のストリートギャング」をイスラム教徒に立ち向かわせる彼の能力に実績があったからだった。

 急速に繁殖し布教活動を行うイスラム教徒による人口絶滅という想像上の脅威は、インド、スリランカ、ミャンマーで多数派優位主義を動員するために中心的なものだ。インドのいくつかの州では改宗を厳しく規制する法律を可決した。その暗黙の目的はイスラム教やキリスト教への改宗を防ぐことだが、一方でヒンドゥー教への改宗は復帰と見なされ、ガル・ワプシ(ghar wapsi)つまり「帰郷」と呼ばれる。ヒンドゥー教の多数派優位主義の話法では、イスラム教徒とキリスト教徒は全てヒンドゥー教徒を祖先に持つということになる。

 ミャンマーは、少数民族を乱暴に追放し、残留する者の権利を剥奪し、仏教徒の狂信的愛国主義者の偏見を法律にしてしまう能力において、南アジアにおける多数派優位主義の先導者であり続けている。ビルマ語名称の頭文字を取って「マ・バ・タ」と呼ばれる人種宗教信条保護機構は、人種宗教保護法と総称されていた法案を可決させる運動として2013年に始まった。2年あまりの間にこれらの法案は議会で承認され大統領の署名を受けて法律となった。

 一夫一婦制、避妊、改宗、異宗教間結婚(イスラム教徒が暗黙の標的)に関するあらゆる法律の中で、目に余るほど甚だしく差別的なのは「ミャンマー仏教徒女性の特別結婚法」だ。20歳未満の仏教徒の女性は非仏教徒と結婚する際に親の同意が必要となる。地域の戸籍係には結婚申請書を掲示する権限が与えられる。誰からも異議申立がなかった場合に限り二人は結婚できるが、全ての国民は異議を唱えることができ、その結果として法廷で異議申立を受けなければならない。離婚の場合は、女性が自動的に子を引き取ることになる。この法律の目的は、仏教徒女性と非仏教徒男性の結婚をできる限り難しくすることだ。ミャンマー政府が宗教の擁護者として傑出することができたのは、宗教に基づいて自国の多数派に有利なように法的に差別したからだということに、南アジアの全ての国々の僧、聖職者、多数派優位主義者たちは気付くことだろう。

 南アジアでの多数派優位主義はイスラム教徒を標的にするとは限らない。反抗的な少数派全般を罰する必要から引き起こされるのでもない。多数派優位主義政治の原因は、丹念に構築された多数派の自己イメージだ。自分たちは敵に虐げられ包囲されていて、長く苦しみを受けてきたので、これ以上黙って苦しむのは拒否すると強く信じているのだ。この被害感覚の醸成は、必ず続いて起きるリンチ、大虐殺、民族浄化の必要前提条件だ。

 多数派優位主義は機会均等を頑迷に主張する。スリランカでは、タミル・タイガー(タミル・イーラム解放のトラ)が敗北し、タミル人の故郷を作るという目標は最終的に破棄されたが、ほとんど急進的先住民優位主義者を落ち着かせる役には立たなかった。シンハラ・ラバヤ(Sinhala Ravaya:シンハラ国家の咆哮)や、ラバナ・バラヤ(Ravana Balaya:ラバナの力、スリランカを支配したと信じられている伝説の王を指す)、ボドゥ・バラ・セーナにとっては、タミル人に代わってイスラム教徒が、シンハラ人仏教徒国家としてのスリランカの統合を脅かす存在となった。イスラム教徒のコミュニティーは内戦で孤児となった。イスラム教徒はタミル語を話すので長年にわたってスリランカ国家から不信感を抱かれてきたが、タミル・タイガー支配地域からもタミル人らしさが足りないので追い出された。現在、新たなイスラム教徒の脅威は、人口、金融(通商と産業を支配していると思われているので)、多国籍の問題と見られている。なぜなら一地域のイスラム教徒は、仏教徒世界をイスラム化するもっと広域の共謀の一部として見られるからだと、ションサルは書く。だが、スリランカの多数派優位主義者はイスラム教徒だけを叩くとは限らない。国民遺産党(Jathika Hela Urumaya)が長らく行ってきた、仏教以外への改宗に厳しい制限を課す法案を推進する運動は、キリスト教伝道者に対する嫌悪によって拍車がかかった。

 ほぼ全人口がイスラム教徒(97%)のパキスタンでさえ、少数宗派のイスラム教徒を標的にした。1974年から同国は15年にわたるイスラム化のプロセスを開始し、アフマディ派の信者を非イスラム教徒と断定し、「神への冒とく法」を可決して少数派を迫害するため日常的に使うようになり、シーア派に対し恐ろしい暴力行為を進んで働くスンニ派原理主義組織をひいきにした。イスラム教徒が多数を占めるもうひとつの国バングラデシュでは、ヒンドゥー教徒の人口が減少してきた。シェイク・ハシナ首相の下でバングラデシュ国家はより世俗的になったが、ヒンドゥー教徒、少数民族、無神論者にとっては依然として危険だ。

 最近のミャンマーからのロヒンギャ追放は非難の嵐を巻き起こしたが、これに対してアウンサンスーチー国家顧問やミャンマーの広報官からだけでなく、歴史家、政策専門家、外国人外交官からも弁護の回答が出された。もしこのミャンマーの政策を擁護する主張によって、平時では最大(1990年代半ばに2百万のルワンダ人が国を追われて以来)の強制集団脱出を正常なものと言いくるめることができれば、南アジア全域の少数派はこれまで以上に迫害に弱い立場に置かれることになる。

 ラカイン州での暴力に対するインドの最初の反応は、大虐殺を暗に是認するものだった。インド首相がミャンマーを公式訪問中の9月6日に発表された共同声明によると、「先日ラカイン州北部でのテロ攻撃が発生し、ミャンマー治安部隊員が何人も命を落としたが、インドはこれを非難した。テロリズムは人権を侵害すること、したがってテロリストを殉教者として賛美するべきではないことを、両国で合意した。」共同声明はロヒンギャ難民の集団脱出について一言も触れなかった。ニューデリーでの会議で発言したインドの外務長官は、ミャンマーを批判しないように注意深く言葉を選んだ。

 「多数の人々がラカイン州から集団脱出しているという事実は、明らかに憂慮すべきものです。我々の目標はどうすれば彼らが元いた場所へ戻れるかを見守ることです。簡単ではありません。この状況の解決は、ただ非常に激しく糾弾するのではなく、現実的な対策と建設的な議論を通して行うほうが良いと、我々は感じています。」

 ミャンマー政府とアウンサンスーチーに対する主に西洋諸国からの激しい糾弾は、過剰で、過度に単純化しすぎで、重要なことを分かっていないと批判されてきた。多数派優位主義者の主張では、仏教徒はこれまで西洋諸国の人権団体に巧みに陳情することができなかったので、ロヒンギャの被害者意識に基づく物語はラカイン州仏教徒の心の傷を覆い隠すものだということになる。この主張では、植民地解放の時からラカイン州北部にイスラム教徒の独立自治区を作るよう求めている武装ロヒンギャの活動が強調される。ラカイン州でのイスラム教徒コミュニティーはイギリスが19世紀初頭にビルマを併合した後で大幅に拡大し、ベンガル地方からこの地域への移民の流入を許したという事実が強調される。もし外国人が対立する民族国家主義者の犠牲となったこれら二つのコミュニティーをもっと公平に扱おうとするのなら、ベンガル人イスラム教徒の侵入を受けたラカイン州仏教徒の恨みを、もっと長い歴史の中に位置づける必要があると主張する。

 この立場の問題点は、歴史的な因果応報に公平性などあり得ないことだ。イスラム教徒の残忍な扱いを支持する主張の意味を理解するには、ビルマ人仏教徒のいう土着民と外来者の区別を市民権と帰属の根拠として受け入れるしかない。ロヒンギャが民族として認めて欲しいと要求する理由は、ミャンマーで完全な市民権を得るには、「国家人種」(タインギンタ:taingyintha)のどれかに属していることが必要だからだ。ラカイン州のイスラム教徒を国家人種(タインギンタ)から除外し、何世代にもわたり居住しているにもかかわらず国家人種(タインギンタ)からの除外にもとづいて市民権を否定する政府の政策は、堂々巡りという点でカフカの小説のように不条理だ。オーストラリアの学者ニック・チーズマンは国家人種(タインギンタ)についての記事の中で、「究極的にはミャンマーの問題は『ロヒンギャ問題』ではなく『国家人種(タインギンタ)問題』で…、国家人種(タインギンタ)という概念そのものが問題なのだ」と指摘する。

 この最近の残虐行為を報じるニュースのほとぼりが冷めたなら、ミャンマー政府はラカイン州に存在するロヒンギャを減らす計画が実績を上げていると信じる理由ができるだろう。スリランカの仏教徒はブミプットラ(bhumiputra:大地の息子)で非仏教徒はムレッチャ(mlecchas:劣等外国人)だと信じる同国の先住民優位主義者は勢いづくだろう。過去にバングラデシュの不法移民が暴力のきっかけとなったアッサム州のBJP政府は、民族浄化を少なくとも「大地の息子」が行う場合は、加害者がどこまでやっていいかについて、新たな教訓を学ぶだろう。

 最近の暴力について声を上げている反対運動の多くは、ヨーロッパ諸国、外国の人権団体、国連機関から発したものだという事実は、ミャンマー政府とその擁護者を増長させ、何も知らない部外者やプロの「悲しみ屋」の仕業だとして無視している。だがこの殺意ある追放は、西洋諸国と非西洋諸国の間の紛争ではない。ロヒンギャの民族浄化は、南アジアでの多数派優位国家主義の長い歴史の中で、特に悪意のある事件だ。その歴史を認識し、その遺産に異議を唱えなければ、さらに多くの悲劇が待ち構えている。

2017年12月20日

(本文終わり)
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関連投稿
ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派(2017年10月7日)


Saturday, January 06, 2018

新年に向けて New Year Prospects

新年の挨拶を申し上げます。A Happy New Year, with the beautiful sunset at Lvshun Port which I captured on December 18, during the study tour to China (Shanghai, Nanjing, Dalian, and Lvshun). Please note the upcoming publication of the second edition of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States, 2nd Edition, Rowman and Littlefield, co-authored with Gavan McCormack. Below is the list of my upcoming publications in Japanese. I will continue to publish, edit, and translate articles for the Asia-Pacific Journal: Japan Focus.

昨年12月18日に白玉山から撮影した、美しい旅順港の夕日とともに。今年は年末に参加した上海・南京・大連・旅順の旅をもとにした記事を『週刊金曜日』から出す仕事でスタートです。



昨年は『琉球新報』『沖縄タイムス』や『週刊金曜日』などの媒体での日本語による記事執筆に加え、英語では

筆者としては
The Emperor’s Army and Japan’s Discrimination against Okinawa
(「天皇の軍隊と沖縄差別」)
What We’re Forgetting in March to War with North Korea
(「北朝鮮との戦争への行進の中で忘れているもの」)
訳者としては
Two Faces of the Hate Korean Campaign in Japan
(「日本のコリアン・ヘイトの2つの顔」)

などを発表いたしました。今年春に、ガバン・マコーマックと共著した
Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States
(抵抗する島々:日本と米国に立ち向かう沖縄)
の第二版が米国の出版社 Rowman and Littlefield 社から出ます。

Asia-Pacific Journal: Japan Focus (『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』)ではエディターとして、いろいろな記事に関わっております。英語でアジア太平洋の政治・社会・歴史・文化の諸問題をクリティカルに分析し発信する媒体です。

また、琉球新報で3年間連載した『正義への責任 世界から沖縄へ』がオリジナルコンテンツを加え一冊の本として東京の出版社から出る予定です。なお、琉球新報社からの同題の冊子は①から③まで好評発売中です。ここからセットで買えます

三一書房から1月末発刊の前田朗・木村朗編『ヘイトクライムと植民地主義』のうちの一章『自らの植民地主義に向き合うこと―カナダから、沖縄へ』を書いております。この本の出版記念シンポが東京で2月25日に開催されます(私はカナダにいるため行けません)。

琉球新報では昨年5月から、不定期で「乗松聡子の眼」というコラムを連載しております。これは紙版のみでネットにはありません。

他に、スタディーツアー、シンポジウム等を行う予定です。

今年もよろしくお願いいたします。Hope all will have a great 2018!

乗松聡子 Satoko Oka Norimatsu
ピース・フィロソフィー・センター代表 Director, Peace Philosophy Centre
アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター Editor, Asia-Pacific Journal: Japan Focus
バンクーバー9条の会ディレクター Director, Vancouver Save Article 9

プロフィール、CVは See my bio at: ここ
フェースブック Facebook: Peace Philosophy Centre および Satoko Oka Norimatsu
ツイッター Twitter: @PeacePhilosophy



Saturday, December 30, 2017

2017年の終わりに-大日本帝国の被害者全てに花を捧げた「白いポピーの催し」の報告 End of 2017: Report of the White Poppies Event in Vancouver

日系カナダ人の月刊誌 『月報 Bulletin 』12月号に掲載された記事を許可を得て転載します(写真は『月報』に掲載されたものと異なり、すべて筆者によるもの)。これが今年最後の投稿となります。下の後記も読んでください。Here is Satoko Oka Norimatsu's report of the White Poppies event in Vancouver on November 11, Remembrance Day, for which my Peace Philosophy Centre dedicated a wreath that remembers all victims of the Empire of Japan. See below for the full text of the wording that went with the wreath.

白いポピーの催しー全ての戦争被害者の追悼

乗松聡子

11月11日「リメンブランス・デイ」(記憶の日)は第一次世界大戦の停戦協定が結ばれた1918年の同日を記念する日だ。毎年11月は政治家やテレビキャスターから一般人まで、軍人の「尊い犠牲」を讃えるシンボルである赤いポピーをつけ「忘れてはいけない Lest We Forget」という言葉が広告や街角にも目立つ時期となる。特に今年は、カナダを含む連合軍とドイツ軍合わせ約50万もの死傷者を出した闘いであったにもかかわらず、戦略的には意味が薄かった(つまり無駄死にを大量に出した)と言われる1917年の「パッシェンデールの闘い」100周年を記念する式典やメディアの特集が目立っていた。
準備中続々と集まる参加者

このような軍人の記憶が中心を占める記念日において異彩を放っていたのが同日、バンクーバーのバラード橋の南側のたもとにある「シーフォース・ピース・パーク」で開催された「平和によって記憶しよう -知られざる戦争被害者を追悼する」集会(「バンクーバー・ピース・ポピーズ」と「BCヒューマニスト協会」共催)であった。これは1926年、まだ第一次世界大戦の記憶が生々しく残る時代に、英国の平和主義者が、11月11日の停戦記念日を、非戦を訴える記念日にしようという意図で白いポピーを身につけることで始まった「ホワイト・ポピーズ」運動の流れを汲むものだ。

カナダにおける運動も、「軍人だけではなく民間人の戦争被害者も記憶し平和創造に役立てよう」という意図で始まった。これは決して軍人の犠牲を軽んじているわけではないとするが、カナダ軍の退役軍人会「ロイヤル・カナディアン・リジョン」から強い非難を受け、運動としてはあまり広がらないままでいる。今回の集会も、午前中に多い軍人関係の行事と重ならないように気をつかって午後2時半の開始としたという(終わりは4時頃)。

聴衆に語りかける
テレサ・ガニエさん

「ピース・ポピーズ」のウェブサイト(www.peacepoppies.ca)では、「退役軍人への尊敬と共感はいつも保ってきたが、赤いポピーを身にまとうことについて、退役軍人を支持するさまざまな催しの底流には現在と将来の戦争に向けての宣伝や新兵募集の意図があることを感じ取れるから、居心地の悪い思いをしてきた」との心情が綴られ、白いポピーを着ける理由は「全ての戦争被害者を記憶し、戦争が原因となる環境破壊を悲しみ、社会変化の手段としての戦争を拒み、対話と、紛争解決の平和的な手段を求め、よりよき将来をつくることへの決意を示す」としている。

今回の催しは昨年に続き第二回目。180名ほどが集まった(主催者発表)。バンクーバー市の公園課の後援を受けたこの式典で挨拶した主催者代表のテレサ・ガニエさんは、「戦争の被害者の90%は民間人である」と強調し、「戦争が安全や民主主義をもたらしたことなどない。戦争という手段は単純に言って紛争解決の“目的を達することはない”(It simply doesn’t work)」と主張していたことには同意できる。カナダ政府は今年、今後10年で7割もの軍事予算増加の計画を発表した。カナダの武器輸出の一番の得意先は世界一の戦争大国である米国、二番目はテロリズムを醸成する非民主国家のサウジアラビアである。この式典は過去の戦争被害者の記憶だけではなく、NATOの一員として世界の軍事的脅威に加担する現在のカナダに対する強い批判を含むと感じた。
次々と置かれる花輪。左方、黄色と白の花のミックスの花輪がバンクーバー9条の会のもの。その左がピース・フィロソフィー・センターの花輪。

他にも、「イマジン」などの平和をテーマとした音楽の演奏やスピーチが続いた後で、この集会のハイライトである「平和のリース wreathの献花」が行われた。まずは「世界のリース」ということで、戦争被害者で見えにくい存在としての難民、女性、救援に携わる人たち、子ども、良心的兵役拒否者、戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患う民間人および軍人への献花があった。少年兵を記憶する花輪は実際にシエラレオネ内戦の元少年兵が、戦争で死亡したり負傷したり親を失った子どもたちには地元の小学生が花輪を捧げた。
原爆被害者を記憶する花輪
を捧げた被爆者ランメル幸さん

次に地元のグループによる先住民、パレスチナ、イエメン、シリアの戦争被害者、今年80周年を迎える南京大虐殺の被害者などへの献花があった。日系人としては、バンクーバー9条の会を代表し、8歳のときに広島で被爆したランメル幸さんが「1945年米国が広島に8月6日、長崎に8月9日投下した原子爆弾による何十万もの被害者―日本人、朝鮮人、その他の国の市民や連合国の捕虜-に捧げる」との文言とともに献花した。私は、自分が主宰するピース・フィロソフィー・センターとして、1868年から1945年まで続いた大日本帝国の植民地支配と侵略戦争がもたらした、アジア太平洋全域(日本を含む)の全ての被害者に花輪を捧げた。日本出身者としては、戦争被害者を記憶する催しで、「広島・長崎の原爆」の記憶だけを代表するのではおかしいと思ったこともある。

会場には日系人・日本からの移民は15人程度来ていたと思う。今回、主催者からは日系カナダ人強制収容被害者に献花する人はいないかと促されたが、手配することができなかった。来年以降の課題としたいと思う。

☆1月7日追記:
実際に掲載された記事のイメージをいただきましたのでここに転載します。


(記事転載以上)

参考:

★ピース・フィロソフィー・センターの花輪の文言は:

This wreath is dedicated to the millions and millions of civilian victims of the colonial rule, aggressive wars, oppression, and exploitation by the Empire of Japan throughout its duration from 1868 to 1945. These atrocities include killings -- large and small --, rape, looting, sexual slavery, forced labour, conscription, forced suicides, displacement, forced assimilation, discrimination, impoverishment, medical experimentation, vivisection, unlawful arrests, imprisonment, torture, execution, and other violence, abuses and deprivation of human rights. The victims include people of Ainu, Ryukyus, Korean Peninsula, China, Taiwan, Sakhalin, Kurils, Hong Kong, the Philippines, Malaysia, Singapore, Indochina, Thailand, Burma, India, Indonesia, Timor, New Guinea, Guam, Northern Mariana Islands, Marshall Islands, other Pacific islands, and Japan. This wreath also remembers POWs who were abused and killed, and all resistance fighters against the Empire of Japan, including war resisters within Japan.

Remembrance Day, 2017   Peace Philosophy Centre

日本語訳
この花輪は、大日本帝国(1868-1945)の植民地支配、侵略戦争、弾圧、搾取による何百万、いや何千万かそれ以上(millions of millions)の民間人の被害者に捧げます。これらの残虐行為には、殺害(大規模のものから小規模のものまで)、強姦、略奪、性奴隷、強制労働、徴兵、強制自殺、追放、強制同化、差別、貧困、医学実験、生体解剖、不法な逮捕、投獄、拷問、処刑、他の暴力、虐待や人権侵害などが含まれます。被害者は、アイヌ、琉球諸島、朝鮮半島、中国、台湾、樺太、千島列島、香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドシナ、タイ、ビルマ、インド、インドネシア、ティモール、ニューギニア、グアム、北マリアナ諸島、マーシャル諸島、他の太平洋の島々、そして日本の人々などです。この花輪はまた、捕虜として虐待されたり殺されたりした人たち、また、日本国内で戦争に反対した人たちを含む大日本帝国に抵抗し闘った人たちも記憶します。

2017年11月11日 
ピース・フィロソフィー・センター

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2017年度は、これで最後の投稿となります。最後にこの記事を紹介したのは、この催しに参加した問題意識こそ来年以降の自分の活動を下支えするものになるからです。日本人として、大日本帝国70年余の植民地支配と侵略戦争とそれがもたらしたものについて学び、伝えていくことこそが、戦争や戦争準備をさせず、命と環境を大事にする世界をつくることに貢献する道と信じるからです。いま、歴史を否定し被害者を傷つける者たちが日本に蔓延し、国外にまで出てきて、日本軍「慰安婦」という性奴隷制度に「強制がなかった」とか、「南京大虐殺がなかった」とか、日本国外では到底通用し得ない、加害国としてはあまりにも恥ずかしい歴史観を流布しようとしています。このような歴史否定の動きは、日本がアジアで孤立し、軍拡を強め、米国と結託した戦争への道を突き進む動きと直結しているのです。このような動きに、歴史を知らない多くの日本人が影響されてしまっている事態を憂慮し、同じような問題意識を持つ日本内外の人たちと連携し、日本がアジアの、世界の、信頼される一員となれるよう、日本人の責任として努力していきたいと思っています。最後に、今年亡くなられた、私にとってかけがえのない恩師といえる方だった、高實康稔さん大田昌秀さんに心からの感謝の気持ちを表したいと思います。来年もよろしくお願いします。

乗松聡子 @PeacePhilosophy

Wednesday, December 27, 2017

多文化主義国家カナダの教育から学ぶ:原京子 Learning from Canada's Multiculturalism: Kyoko HARA

月刊 イオ』は、在日コリアンの「1、2世同胞の祖国、民族を想う心を受け継ぐとともに、在日コリアン同胞社会をネットワークしたいという気持ちを込めて1996年に創刊され」た雑誌です。

その『イオ』の10月号に掲載された、バンクーバー9条の会の一員である原京子さんの文を、許可を得て転載します。この記事は、朝鮮学校が高校無償化の対象外とされている差別に対する訴訟が続く中、「民族教育権」についての特集が組まれた一環としてカナダでの体験を原さんが寄稿したものです。


原さんはこの記事で、カナダの「多文化主義」の中で暮らし学校に行く子どもたちのことを綴り、日系の子が弁当にもってきた海苔をからかった子どもが停学処分を受けるといった、レイシズムを防止する教育の徹底ぶりも紹介しています。

カナダの日系人、日本人は全人口の1%ぐらい、カナダにいる多数の民族の一つです。日本に暮らす圧倒的多数派の日本人は、自分たちを「民族」と認識することは日常的にないかもしれませんが、民族教育といえば、日本人こそ民族教育を世界で行ってきています。日本人学校、補習授業校、日本語学校といわれるような学校のことです。文科省が関与していたりプライべートなものだったり、フルタイムの学校だったり週末だけの学校だったりいろいろ形態は違いますが多くは日本のカリキュラムを使用し、日本の教科書を使って勉強して、運動会や文化祭、季節の行事など日本の民族的風習を実践しているわけです。私の住むバンクーバーにも補習授業校がありますが、州の公立学校の一角を借りて運営しています。賃貸料を支払っていると察しますが、カナダの公的資産からも恩恵を受けて日本の民族教育が成り立っているわけです。他の民族教育をやっている少数派民族と同様、その権利は保障され、迫害を受けたり襲撃を受けたりカナダの公的施設を使わすなといった運動が起こったりすることは聞いたことがありません。

もちろん日本における朝鮮学校はカナダや他国における日本人学校や日本語学校とは歴史的背景が全く異なります。世界中にいる日本人や日系人はもともと自分たちの選択でそこに来た人や企業の関係者であることが多いでしょうが、日本にいるコリアンの人たちの多くはかつて、日本による朝鮮半島の植民地支配の歴史の中で生活や仕事のために日本に来たり日本に強制連行で連れてこられたりした背景があるわけです。だから現在の日本においては朝鮮学校は他の民族教育にも増して尊重し、手厚く扱う必要があるのではないかと私は思いますが、実際に日本政府や日本社会が行っているのは、他の民族教育にも増して差別や迫害をしてきているという有様です。日本は朝鮮に対する植民地主義を乗り越えておらず今も続いているということです。本当に恥ずかしいことと思います。

原さんがここでいうようにカナダも完璧とは言えないですが、カナダの多文化教育や、差別をなくす教育の試みが、日本の現在に示唆するものは大きいのではないかと思います。

前文、後文は @PeacePhilosophy の乗松聡子でした。

このブログの原京子さんによる過去の投稿
朝鮮学校の良さを知ってもらいたい: 原京子レポート&映画「ウリ・ハッキョ」紹介

教員として、歴史家として、人間の生き方として―高嶋伸欣バンクーバー講演報告

高嶋伸欣「自分の頭で考える大切さ」-バンクーバー地元紙『Oops!うっぷす』の「ひと」欄より


 


Saturday, December 02, 2017

『正義への責任 世界から沖縄へ③』が出ました Responsibility for Justice - From the World to Okinawa Vol. 3

琉球新報で2014年10月から今年10月まで3年にわたり連載した海外寄稿シリーズ『正義への責任 世界から沖縄へ』をまとめた③巻(完結編)が12月1日発刊されました。

『敗北を抱きしめて』の歴史家ジョン・ダワー氏の長編寄稿、『天王山』の作者ジョージ・ファイファー氏、元米陸軍大佐、現在平和活動家のアン・ライト氏などによる、沖縄を軍事要塞として利用する「パックス・アメリカーナ」への痛烈な批判と国際的市民運動・抵抗への期待を込めた論文とメッセージ。監修・翻訳 乗松聡子

琉球新報STORE から買えます。

著者陣:
ジョン・ダワー、ジョージ・ファイファー、アン・ライト、レジス・トレンブレー、マリー・クルーズ・ソト、リチャード・フォーク、ティム・ショロック、乗松聡子(総括文)。

2014年初頭『海外識者沖縄声明』をうけてのメッセージ集:ピーター・カズニック、ノーマ・フィールド、デイビッド・スズキ、ジョセフ・ガーソン、マーク・セルダン、ガバン・マコーマック、ジョイ・コガワ、アレクシス・ダデン、ケビン・マーティン、ジョン・フェッファー、ハーバート・ビックス、ブルース・ギャグノン。

あとがき:普久原均(琉球新報編集局長)



12月5日 琉球新報に出た社告


Sunday, November 05, 2017

ジェレミー・コービンへの期待と不安:ジョン・ピルジャー「英国『新政治』の台頭」 John Pilger: The Rising of Britain's 'New Politics' - Japanese Translation

どのように既存勢力に抗って民衆の支持を得た指導者といえども、いったん権力の地位につくと軍産複合体の重圧に勝てなくなるのだろうか-気鋭のジャーナリスト、ジョン・ピルジャーが、躍進を続け期待のかかる英国労働党のジェレミー・コービン党首について抱く不安である。コービンの外交政策は不明のままだが、彼の「影の内閣」の外相は「人権を英国外交政策の中心に取り戻す」「英国を再び世界における善の勢力とする」などと言っている。ピルジャーはそれを「帝国の懐古趣味」とし、英国が「人権」を外交政策の中心にしていたことなど一度もない、と数々の実例で反証する。コービンは歴史を変えられる「本物」なのか、それとも、労働党大会におけるBAEシステムズの展示に象徴されるように、結果的には権力の「代償」として軍産複合体に服従させられるのかーーー考えさせられる記事、総選挙後の日本にも届けたいと思い、日本語で提供する。@PeacePhilosophy 

(注:翻訳はアップ後微修正することがあります。)

原文:
THE RISING OF BRITAIN'S 'NEW POLITICS'
http://johnpilger.com/articles/the-rising-of-britain-s-new-politics

英国「新政治」の台頭

2017年10月6日
ジョン・ピルジャー

翻訳:酒井泰幸(協力:乗松聡子)

 イギリス海岸の街ブライトンで先日開かれた労働党大会に出席した代議員たちの中に、その正面入口で上映されていた映像に気を留めた人はいなかったようだ。サウジアラビアに納入している世界第3位の兵器メーカー、BAEシステムズが、自社の銃、爆弾、ミサイル、軍艦、戦闘機を宣伝していた。

 それは、今や何百万もの英国人が政治的な望みをかけている党の、背信の象徴に見えた。かつてのトニー・ブレアの縄張りを現在率いているジェレミー・コービンの経歴は、ブレアのものとは非常に異なり、英国の政治支配者層では希なものだ。

 労働党大会で演説した運動家のナオミ・クラインは、コービンの台頭をこう表現した。それは「世界的現象の一部です。米国大統領予備選でのバーニー・サンダースの歴史的な選挙戦で私たちはこれを目にしました。それを支援していたのは、無難な中道政治が無難な未来をもたらすなどあり得ないと知っているミレニアル世代でした。」

 実際には、昨年の米国大統領予備選の終わりに、サンダースは、彼の支援者たちを、民主党で長く続いてきたリベラルの戦争屋、ヒラリー・クリントンの手に委ねた。

 オバマ大統領政権の国務長官として、クリントンは2011年のリビア侵攻を取り仕切り、その結果ヨーロッパに難民が殺到した。リビアの大統領が惨殺されるのを彼女が満足げに眺めたことは良く知られている。彼女はその2年前、民主的に選ばれたホンジュラスの大統領を打倒するクーデターを承認した。彼女が10月14日にウェールズに招かれスウォンジー大学から名誉博士号を授与された理由に、彼女が「人権の代名詞」だとされたことは、全く理解に苦しむ。

 クリントン同様、サンダースは冷戦の戦士で、米国以外の世界を所有しているような見方を持った「反共」の偏執狂だ。彼は、1998年にビル・クリントンとトニー・ブレアが行ったユーゴスラビアへの不法な攻撃と、アフガニスタン、シリア、リビアへの侵攻、さらにバラク・オバマのドローンによるテロ攻撃作戦も支持した。彼はロシアの挑発を支持し、内部告発者のエドワード・スノーデンを裁判にかけるべきだということに同調している。何度もの選挙に勝利した社会民主主義者の故ウゴ・チャベスを、サンダースは「死んだ共産主義の独裁者」と呼んだ。

 サンダースはよくいるようなリベラル政治家だが、コービンは実際に「現象」となるのかもしれない。彼は米英の植民地進出の犠牲者や民衆抵抗運動を根強く支持している。

 たとえば、1960年代と70年代に、インド洋の英国植民地のチャゴス諸島住民は、労働党政権によって祖国を追われた。全住民が拉致されたのだ。この目的は、本島のディエゴガルシア島を米軍基地のために明け渡すことだった。英国への「補償」は、ポラリス原子力潜水艦の価格を1400万ドル値引きするという秘密の取引だった。

 私はこれまでチャゴス諸島住民と深く関わってきた。モーリシャスとセイシェルで追放の身となって暮らしている住民たちを撮影した。彼らはそこで嘆き苦しみ、「悲しみのあまり死んだ」者もいたと私は聞いた。彼らは国会の労働党員、ジェレミー・コービンという人物に政治的指導者を見出した。

 パレスチナ人も同様だった。2003年に当時の労働党首相[ブレア首相]による侵略で恐怖に陥ったイラク人も同じだった。西洋大国の陰謀から逃れようと苦闘している他の国々も同じだった。米国巨大企業によって破壊された数々の社会に希望以上のものをもたらしたウゴ・チャベスのような人物を、コービンは支持した。

 一方、今やコービンはかつて想像したこともないほど権力の座に近付いたが、彼の外交政策は秘密のままだ。

 秘密というのは、聞こえの良い言葉以外ほとんど何もなかったということだ。「我々は価値を外交政策の中心に据えなければなりません」とコービンは労働党大会で発言した。だがこの「価値」とはいったい何のことなのか?

 1945年以来、保守党同様、英国労働党は帝国の政党で、ワシントンに追随し、チャゴス諸島での犯罪行為のような過去を持っている。

 何が変わったのか?ジェレミー・コービンは、米国の戦争機構やスパイ組織、経済封鎖といった人間性に背く政策から労働党が手を引くとでも言うのだろうか?

 コービンの「影の政府」の外相であるエミリー・ソーンベリーは、コービンが政権を取ったら「人権を英国外交政策の中心に取り戻します」という。だがパーマストン子爵(ヘンリー・ジョン・テンプル)が19世紀に言明したように、人権が英国外交政策の中心にあった試しはなく、あったのは「利益」だけだ。英国社会の頂点にいる人々の利益だ。

 ソーンベリーは1997年に、トニー・ブレア政権の最初の外相であった故ロビン・クックを引用し、「英国を再び世界における善の勢力とする…、倫理的な外交政策」を誓った。

 歴史は帝国の懐古趣味に寛大ではない。1947年に労働党政権が行ったインド分割を記念する催しが先日あった。国境線を性急に引いたのは、ロンドンの法廷弁護士シリル・ラドクリフで、それ以前にインドに行ったことはなく、その後にインドから戻ることはなかった。彼が引いた国境線は大量虐殺と呼べるほどの流血を招いた。

ひとり籠もった邸宅には、守衛が昼も夜も 
刺客を寄せ付けぬよう庭園を巡り、 
彼が着手したのは、運命を定める仕事 
何百万人もの運命。彼の手にあった地図は時代遅れで
国勢調査の報告書は、ほぼ確実に間違いだったが、
確認する時間はなく、調査する時間はなかった 
争いの舞台を。気候は恐ろしいほどに暑く、 
赤痢の発作で下痢は絶え間なく続いたが、 
それは7週間で完成し、国境が定められた、 
大陸は良くも悪しくも分割された。 
-「分割」W・H・オーデン

 現代の基準からすれば「急進的な」クレメント・アトリー首相が率いる、同じ労働党政権(1945〜51年)は、イギリス帝国陸軍をサイゴンへと派遣した。司令官はダグラス・グレーシーで、ベトナム民族主義者が自国を解放するのを防ぐため、敗北した日本軍将兵を再軍備する命令を受けていた。こうして、20世紀で最も長い戦争[インドシナ戦争]の火蓋が切られた。

 労働党[アトリー政権下の]のアーネスト・ベヴィン外相こそ、世界、特に中東で、最も悪意ある専制君主の何人かと「相互依存」と「協力関係」を結ぶ政策によって、現在も持続する関係を構築した人物で、しばしば地域や社会全体の人権を脇に追いやり押し潰した。その動機は英国の「国益」、つまり石油と権力と富だった。

 「急進的な」1960年代に、労働党のデニス・ヒーリー国防大臣は、武器取引を促進し殺傷兵器を世界に売って金を稼ぐことを明確な目標とする、国防販売支援機構(DSO)を設立した。ヒーリーは国会で、「軍備管理と軍縮の分野での進展を図ることを最重要目標とする一方で、我が国がこの価値ある市場で正当な分け前の獲得に失敗しないようにするため、我々は取り得る実務的な手順をも踏まなければなりません」と発言した。

 二重思考は労働党の得意とするところだ。

 私がのちにこの「価値ある市場」についてヒーリーに尋ねたとき、彼の決定は武器輸出の量に何の影響ももたらさなかったと彼は主張した。しかし実際には、武器市場での英国のシェアは、ほぼ倍増した。現在、英国は世界第2位の武器販売国で、武器、戦闘機、機関銃、「暴動鎮圧用」車両を、英国政府が人権侵害国家と名指しする30カ国のうち22カ国に売っている。

 このようなことがコービン政権下で終わりを迎えるのだろうか?コービンがお手本としているようであるロビン・クック[ブレア政権の外相]の「倫理的外交政策」が何だったかを調べればわかってくる。ジェレミー・コービンと同様に、クック[庶民院初当選1974年]は武器取引に批判的な一般代議士として名声を築いた。「武器が売られるところはどこでも、戦争の現実を隠蔽する暗黙の謀略が存在」し、「過去20年のあらゆる戦争は、豊かな国が供給した武器で貧しい国々が戦ったということは自明の理だ」とクックは書いていた。

 クックは英国のBAEホーク戦闘機のインドネシアへの売却を「特に憂慮すべき」だと指摘した。インドネシアは「弾圧的なだけでなく実際に2つの戦線で戦争をしている。東ティモールではおそらく人口の6分の1が虐殺され…、西パプア州では先住民の解放運動と対峙している」。

 外相として[ブレア政権下で1997-2001年]、クックは「武器販売の全面見直し」を約束した。のちにノーベル平和賞を受賞した東ティモールのカルロス・ベロ司教は当時、クックに直訴した。「どうか、お願いですから、これ以上紛争を継続しないで下さい。この武器販売がなければ、そもそも争われることはなく、これほど長期にわたることもなかったでしょう。」彼が言っていたのは、インドネシアが英国のBAEホークを使って行った東ティモール空爆と、英国の機関銃を使った東ティモール人民の虐殺のことだった。これに対する回答はなかった。

 その翌週、クックは記者たちを外務省に呼び、「新世紀における人権」に向けた彼の「任務声明」を発表した。この宣伝イベントにはBBCなど一部の記者との恒例の私的懇談も含まれ、そこで外務省担当者は、英国のBAEホーク戦闘機が東ティモールで作戦投入されたという「証拠はない」と、虚偽の発言をした。

 数日後、外務省はクックの武器販売政策「全面見直し」の結果を発表した。「労働党が選挙に勝ったときに有効で実施中だった販売免許を取り消すことは、現実的でも実務的でもなかった」とクックは書いた。スハルト政権のエディ・スドラジャト国防大臣は、さらに18機のBAEホーク戦闘機の購入に向けて、英国との交渉が進行中だと語った。「英国の政治的変化が我が国の交渉に影響を与えることはないでしょう」と彼は言った。そしてそれは本当になった。

 現在の場合では、インドネシアをサウジアラビアに、東ティモールをイエメンに置き換えればよい。保守党と労働党の両政権の承認を得て販売された英国の軍用機は、労働党大会では最高の場所で宣伝映像を流していた企業が製造したものだ。世界で最も貧しい国の一つ、イエメンでは、その飛行機による空爆で人々は焼け出され、子どもの半数は栄養不良で、現代では最大規模のコレラ大流行が発生している。

 病院、学校、結婚式、葬式が攻撃対象になった。リヤドでは、英国軍人がサウジアラビア人に標的の選び方を教えていると伝えられている。

 労働党の2017年選挙公約では、ジェレミー・コービンと彼の党員は次のように約束した。「労働党は、包括的、独立、国連主導の調査を要求する。その対象は、サウジアラビア主導の連合軍が行ったイエメンの市民に対する空爆など、違反が疑われる事件だ。我々は、この紛争で使われる武器のさらなる販売を、調査の結論が出るまで即時保留する。」

 だがイエメンでのサウジアラビアの犯罪の証拠は、すでにアムネスティなどよって記録され、英国人ジャーナリスト、アイオナ・クレイグの勇気ある報道は特筆すべきものだ。調査書類は膨大な量に上る。

 労働党はサウジアラビアへの武器輸出を停止するとは約束していない。英国がイスラム聖戦思想の波及に手を貸している政府への支持を撤回するとは言っていない。武器取引を廃絶するという約束はどこにもない。

 選挙公約は次のように述べている。「共有する価値に基づく(米国との)特別な関係があるが…、現トランプ政権があえてこれを無視するなら、…我が国は恐れることなく異議を唱える。」

 米国と渡り合っていくのは単に「異議を唱える」ことではないことを、ジェレミー・コービンは知っている。米国は強欲で身勝手な大国で、大統領がトランプか他の誰かであるかに関わらず、人権を擁護する国家の自然な同盟国と見なされるべきではない。

 エミリー・ソーンベリーがベネズエラとフィリピンを結び付けて「ますます独裁的になりつつある体制」と言ったとき、(これはベネズエラでの政権転覆に米国が果たした役割を無視した、文脈上の真実を奪われたスローガンに過ぎないのだが、)彼女は意識的に敵の面前で演じていたのだ。これはジェレミー・コービンが熟知することになる戦術だ。

 コービンが政権を執れば、チャゴス諸島住民に帰還の権利を認めるだろう。だが労働党は、英米間で50年目の更新に署名したばかりの合意を再交渉するとは言っていない。この合意はディエゴガルシア島の基地の使用を許可するもので、ここから米国はアフガニスタンとイラクを空爆した。

 コービンが政権を執れば、「パレスチナ自治政府を即時承認」するだろう。だが、英国がイスラエルに武器供与を続けるかどうか、イスラエルの違法な「入植地」での違法な取引を黙認し続け、イスラエルを米英に免責された歴史的な迫害者としてではなく単に戦争当事者として扱い続けるのか、労働党は沈黙している。

 NATOが現在進めている戦争準備を英国が支持していることについて、NATOに対して「前回の労働党政権はGDPの2%という基準以上に支出した」と労働党は自慢する。労働党によれば、「保守党の支出削減により英国の安全保障は危険にさらされて」おり、英国の軍事的「責任」を強化すると約束する。

 実際には、英国が軍に現在支出している400億ポンドのほとんどは、英国の領土防衛のためではなく攻撃目的で、ジェレミー・コービンを非国民として中傷しようとする人々が定義するような「国益」のためだ。

 国勢調査が信頼できるとすれば、英国人のほとんどは自国の政治家たちよりずっと進んでいる。公共サービスを充実させるため高い税率を受け入れ、国民保健サービスを健全な状態に再建することを求めている。まともな仕事と給料、住宅と学校を求めている。外国人を憎んではおらず、搾取的労働に憤っている。太陽の沈まない帝国を懐かしく思ってはいない。

 英国が他国を侵攻することに反対し、ブレアを嘘つきと見なす。ドナルド・トランプの台頭は、自国を引きずる米国がどれほどの脅威となり得るかを思い起こさせた。

 労働党はこの雰囲気の恩恵を受けているが、その約束の多くは(外交政策では確かに)制限され譲歩したもので、多くの英国人にとっては、以前と同じだと映る。

 ジェレミー・コービンの誠実さは多くの人が認めるところだ。彼はトライデント核兵器システムの更新に反対し、労働党はそれを支持している。だが彼が影の内閣の役職に据えたのはブレア主義を支持する戦争推進の議員たちで、彼を「選出の見込み無し」と罵り退陣させようとしたような者たちだ。

 「我々は今や政治的主流派だ」とコービンはいう。そう、だがその代償は何だろうか?


著者のジョン・ピルジャー(John Pilger) は、1939年オーストラリア生まれ、ロンド ン在住のジャーナリスト、ドキュメンタリー映画作家。50本以上のドキュメンタ リーを制作し、戦争報道に対して英国でジャーナリストに贈られる最高の栄誉「ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」を2度受賞、記録映画に 対しては、フランスの「国境なき記者団」賞、米国のエミー賞、英国のリチャード・ディンブルビー賞などを受賞している。ベトナム、カンボ ジア、エジプト、インド、バングラデシュ、ビアフラなど世界各地の戦地に赴任した。邦訳著書には『世界の新しい支配者たち』(井上礼子訳、岩波書店)がある。また、過去記事は、デモクラシー・ナウやTUPなどのサイトにも多数掲載されている。

ジョン・ピルジャーのウェブサイトはこちら。www.johnpilger.com

当ブログの過去のピルジャー記事翻訳:

ジョン・ピルジャー『きたる対中戦争』

ジョン・ピルジャー:なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか 

ジョン・ピルジャー「今なぜファシズム台頭が再び問題になるのか」




Tuesday, October 24, 2017

総選挙の後に:2017年長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ A message for Korean victims of the Nagasaki Atomic Bomb, August 9, 2017

日本の植民地支配、侵略戦争、朝鮮人被爆への責任に真摯に向き合うための歴史を展示する「岡まさはる記念長崎平和資料館」理事長の高實康稔氏は今年の4月、亡くなられました。高實さんは毎年8月9日、長崎原爆の朝鮮人被爆者を追悼するための早朝集会でメッセージを読んでいましたが、今年は、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の柴田利明さんがメッセージを読みました。ここに紹介します。日本は、安倍首相が初めて改憲を公約に掲げたとする総選挙で自公連立政権が3分の2の議席を再び確保しました。日本の侵略戦争の歴史を否定する動きも止まる気配がありません。「北朝鮮」の脅威を煽り憎しみと戦争への欲望を駆り立てる政府やメディアの風潮も収まる気配がありません。この12月は、南京大虐殺の80周年を迎える年でもあります。総選挙の暗澹たる結果を受けて、いまここに歴史を心に刻み隣国の人々との友情を築き、再び戦争をさせないための役割を果たしていくことを誓いたいと思います。どんなに少数派となっても、自分の子どもに恥じない生き方をしたい。 @PeacePhilosophy 乗松聡子

2017年長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ
早朝集会メッセージを読み上げる柴田利明さん

 岡正治先生が長崎原爆朝鮮人犠牲者を追悼する碑を建立されたのは1979年8月9日でした。その時以来、長崎在日朝鮮人の人権を守る会は、朝鮮人犠牲者を追悼する早朝集会を開催して参りました。そして、1994年に岡先生が急逝されたあと、私たちは高實康稔先生と共に追悼碑とこの早朝集会を引き継いで参りましたが、非情にも高實先生は既にここにはおられません。

 まず、追悼碑が周囲の碑に比べ特に小さく、平和公園の片隅に建てた理由について、皆さまに申し上げます。

 朝鮮人民は日本帝国主義の朝鮮侵略と1910年の植民地化によって、祖国を奪われ、土地を奪われ、生活の糧まで奪われ、敵地である日本に渡ってこざるを得ませんでした。さらに日本帝国主義は中国侵略戦争、アジア・太平洋戦争へと戦場を拡大し、労働力不足、兵士不足が露わになると、朝鮮人への戦時強制動員、徴用、徴兵を進め、朝鮮民族全体を日本の帝国主義戦争に引きずり込みました。1945年当時、長崎市とその周辺には約3万人の朝鮮人が居住することになりました。長崎市では三菱財閥系、川南工業系の軍需工場と、それに付随する土木作業に朝鮮人労働者とその家族が動員されました。1945年8月9日、アメリカ軍の原爆投下によって長崎市が惨劇の街となったとき、約2万人の朝鮮人が被爆し、そのうち1万人が非業の死を遂げたのです。戦後さらに、日本政府は朝鮮人被爆者に対して差別抑圧の政策を続けました。政府及び長崎市は戦時強制動員ゆえの被爆である事実を認めようとせず、あまつさえ、長崎原爆死者数を1200人と実数から大幅に減じた数を公表しています。岡正治先生は、理不尽極まる朝鮮人被爆者の非業の死を前にして、日本帝国主義足下に生きる一日本人としての責任を自らに課し、市民からの募金を得て、贖罪の思いを込めて、この追悼碑を建立しました。

 一昨年より、韓国を始め世界各地から追悼碑を訪れる方が増加しております。その中に碑の場所と小ささを韓国・朝鮮人に対する差別ではないかという疑念が生じるのはやむを得ないことです。しかし、追悼碑は建立後に公園整備の関係で、数度移動と立て替えを行いましたが、その都度、岡先生と高實先生は、日本人としての贖罪の思いは目立たず密やかであるべきだとのお考えで、このような小規模な形となっております。

 昨今、日本政府に煽られた一部の人間による差別排外主義が高まっております。この小さな碑にも撤去を求める蠢動が出ております。それに対してきょうのように、世界各地から自主的に集まられた皆さんがこの小さな碑を囲み、朝鮮人原爆犠牲者の追悼のひとときを共有しているのは希有なことには違いありません。その上で、日本の過去の侵略と戦争に対する深く正確な歴史認識に基づいた名もなき市民一人一人の贖罪の意志こそが、一見孤立し小さく見えるようとも、歴史の逆流に対峙したとき堅い防波堤の連なりになるというのが岡、高實両先生のお考えであり、私たちも続いていきたいと思います。

 高實先生は、端島=軍艦島の世界文化遺産化問題にたいして、安倍内閣は近代日本の優越性を内外に誇示しようとする狙いがあり、さらに日本近代史が朝鮮侵略と戦争そして長崎原爆投下にまで行き着いた歴史は隠蔽しようとすることに本質があることを見抜き、端島に強制連行された朝鮮人・中国人の歴史の真実を明らかにすべく「軍艦島に耳を澄ませば」の編集に渾身の力を注ぎました。そして昨年秋に「軍艦島に耳を澄ませば」の韓国語訳出版の提案があり、意義深いことだと感激し、病床にありながら韓国での出版を心待ちにされました。韓国語版「軍艦島に耳を澄ませば」が、映画「軍艦島」の柳昇完(リュ・スンワン)監督からの推薦も受け、二人の翻訳者によって7月31日に出版されたことをご報告いたします。

 アメリカ軍が長崎に投下した原子爆弾は防御不可能な無差別大量殺戮兵器でした。核兵器廃絶は世界人類にとって絶対的課題であるべきことは何者も否定できません。2017年7月7日、国連本部で「核兵器禁止条約」が採択されましたが、日本政府は核兵器保有国とともに条約参加を拒否しました。広島・長崎の被爆者から安倍首相への非難が一層強まったのは当然のことです。

 日本政府は唯一の被爆国という仮象を国際外交で謳ってきました。一方で韓国人被爆者にたいして厚生労働省の指導を通して手帳の交付申請を却下する姿勢を強めています。韓国・朝鮮人被爆者の存在を否定する排外主義の強まりを懸念せざるを得ません。「原爆と朝鮮人」第7集に三菱長崎造船所に動員され被爆した韓国人の証言を掲載しました。その証言も添えて被爆者手帳交付申請をしましたが却下されました。結局韓国人被爆者は裁判を起こしましたが、長崎市は却下理由の資料として1981年6月に作成した「朝鮮人被爆者一覧表」に原告の名前がないという荒唐無稽な弁論をしてきました。この「朝鮮人被爆者一覧表」という文書は長崎市(本島市長当時)が朝鮮人被爆死者数を1200人以下に留めたいという思惑のために捏造した文書であり、高實先生が壊滅的批判を加えてきたものでした。長崎市は韓国・朝鮮人被爆者に対して、恥ずべき民族差別の罪悪を重ねています。

 朝鮮学校に対する高校無償化をめぐって、7月19日広島地裁は無償化からの適用除外を認めました。ところが7月28日大阪地裁では除外処分を取り消し、無償化の適用を命じる全く相反する判決が出されました。高校無償化の法の趣旨に即せば広島地裁の判決は不当であるばかりではなく、地裁の訴訟指揮自体が偏見と民族差別に満ちていたことが指摘されています。政府は大阪地裁判決に従い、朝鮮学校に対する無償化を果たさなければなりません。

 安倍政権の発足から韓国・朝鮮人への差別排外行政が強まったのは確かです。ヘイトスピーチなどの民間における民族差別思想、排外行為の横行も安倍政権が勢いづかせたのは間違いないことです。民族差別、排外主義を安倍政権と共に終わらせなければなりません。

 最後になりましたが、早朝にもかかわらず、多数ご参集くださいましたことに厚く御礼を申上げます。

2017年8月9日

長崎在日朝鮮人の人権を守る会 柴田利明



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Wednesday, October 11, 2017

日系カナダ人作家ジョイ・コガワ氏によるオンタリオ州「南京大虐殺を記念する日制定法案」への支持表明 Japanese Canadian author Joy Kogawa supports Ontario's Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day Act

Joy Kogawa
(2009年5月15日、トロント大学での
憲法9条についてのイベントで講演)
See below for Japanese translation of Joy Kogawa's statement to support Bill 79. The original English version appeared in the Toronto Star on September 15. Please leave a comment in the comment section below to express your support to Joy and Bill 79.

幼いとき戦時日系カナダ人収容を体験し、戦後そのときの体験をもとに書いた小説 Obasan (日本語訳は『失われた祖国』として二見書房から1983年、中公文庫から1998年に出ている)でカナダの代表的作家の一人となったジョイ・コガワ氏。先日からこのブログで、オンタリオ州議会で審議されてきた「南京大虐殺を記念する日」を設ける法案(Bill79)について情報を提供してきているが、さる9月15日、コガワ氏は地元紙『トロント・スター』に、この法案への支持を表明する記事を発表した。

Why I Support the Nanjing Massacre Commemorative Day Act: Joy Kogawa
https://www.thestar.com/opinion/commentary/2017/09/15/why-i-support-the-nanjing-massacre-commemorative-day-act-joy-kogawa.html

ここに日本語訳を紹介する。(注:訳はアップ後微修正することがあります)。

★コガワ氏に賛同する人はこの投稿のコメント欄に賛同コメントをしてください。


なぜ私が南京大虐殺を記念する日法案」を支持するか

-大規模な歴史上の暴力は、その歴史が繰り返されない為に、
周知され研究されるべきである-

2017年9月15日
ジョイ・コガワ

私は、カナダで生まれた日系人として、カナダと日本の両国を愛している。しかし、第二次世界大戦中の幼年期、収容所のあったブリティッシュ・コロンビア州・スローカン市で、土曜日の夜にオッドフェローホールで上映されていたニュース映画を通じて、日本の残虐行為について知ることとなった。日本の数々の素晴らしい側面に対しての誇りを持ちながらも、今日でも私は、日本の軍隊の歴史の重みを感じ、それによって未だ苦しみ続けているアジア全域の被害者とその家族が求めているものに対しても重い気持ちを抱いている。私は、深い傷を負い続けている人々が癒され、その歴史の恥を代々受け継いでいる人々の心の安らぎを願ってやまない。私たちはお互いが傷つけられやすい状況にあることを認めることで、私たちを隔てる原因となる恐怖や憎しみを乗り越えることができると信じている。

Gently to Nagasaki(仮訳:『長崎に優しく』)という著書を執筆しながら、1937年の南京大虐殺について学ぶこととなり、言葉を失うような資料画像を見て身動きが取れない様な感覚に陥った。大日本帝国軍は、数週間の間に、南京を占領し、数え切れない数の捕虜と市民を殺害したのだ。[1]今、サーベルや銃剣の世界を超えた時代において当時と同じような戦争への欲望に我々が直面するにあたり、過去の戦争の悲惨さを明確に記録していくことが重要だ。[2]

ここに、私がアジア系カナダ人と共にBill79“南京大虐殺を記念する日法案”を支持する10の理由を記す。

1)      大規模な歴史上の暴力は、その歴史が繰り返されない為に、周知され研究されるべきである。欧州のホロコーストについては、その歴史は教えられ、人々の心に刻まれているが、アジアの歴史上の大規模な残虐行為についてはそうではない。

2)      現在、排外主義・虚偽報道・歴史修正主義が横行し、ホロコーストの被害者でさえ再び平気で侮辱されてしまう時すらある時代において、Bill 79法案を通過させるような動きは、私達の人間性は、自らが蛮行を犯してしまう能力を有することを認められるかどうかにかかっている、という新たな喫緊の課題を提示する。

3)      私は日系カナダ人として、日系カナダ人に対する補償を求めた長期に渡る闘いに連帯してきてくれたアジア系カナダ人コミュニティを支持する。私達日系カナダ人が支援することによって、アジア系カナダ人コミュニティと今後も良き関係を築いていく礎となる。逆に私たちが支援しなかったりや反対したりすることは、コミュニティ内での分裂と、日系カナダ人に対する敵対心につながる裏切り行為となるだろう。

4)      オンタリオは、多種多様な文化的背景の人々が暮らしていることで知られている。この国はお互い礼をもって接するような姿勢で高い評価を得てきているが、その模範と言えよう。Bill79を通過させることは、混乱の中で希望を渇望している世界に、更なる進化と歩むべき方向性を示すことになる。
                                                                                               
5)      真実の認識なくして、和解はあり得ない。Bill79は、南京の歴史的真実を認める努力を通じて、和解への道に繋がるだろう。この一歩を踏み出すことで、オンタリオは、歴史を修正したり、曖昧にしたり、否定したりする人達とではなく、世界の歴史学者達と共に歩むことができる。

6)      実際に苦しみの中にいる人達の立場に立って、その人たちの口から真実を聞くことが、彼らの苦しみを軽減していく助けとなる。それらを否定し、過小評価しようとすれば、苦しみはさらに長引き、過去の過ちに対して更なる過ちを加えることになる。

7)      Bill79は、かつて罪なき日系カナダ人が日本の罪を代わりに背負わされ、苦しんできた強制収容の歴史を広く認知させることに繋がる。これは現在もこのようにスケープゴートにされている人たちがいるということを社会に知らしめる教育的手段となることであろう。

8)      Bill79の通過は、歴史の真実に向き合う日本の勇気ある教育者に対する激励のメッセージになる。日本の若者たちは、外国で初めて真実を知り衝撃を受ける、というのではなく、母国で自分たちの国の歴史を学ぶ機会があっていいはずだ。

9)      第二次世界大戦から40年が過ぎた1988年9月22日に、カナダ政府が議会の全面的な承認の下、罪なき日系カナダ人に対する加害を認めたことは、真実と和解の勝利であった。アジアの国際的緊張感が高まっている昨今、Bill79の通過は、連帯行動になると共に、アジアの真実・和解・平和・繁栄への希望を与えるものになる。

10)日系カナダ人として、日本が、世界の道義的なリーダーシップを示す国々と並び称されるようになることを願っている。Bill79の通過が、その様な方向へ拍車をかけていくことが私の願いである。



[1] 原文には soldiers とありそのまま訳すと「兵士」であるが、正確に言うと大量虐殺されたのは捕虜であり、筆者に確認した上で「捕虜」と訳した。

Monday, October 09, 2017

琉球新報連載『正義への責任』完結(総括文)"Responsibility For Justice: From the World to Okinawa" Series Concludes

『琉球新報』で2014年10月から3年間連載した『正義への責任 世界から沖縄へ』、10月7日に38回目(11面掲載)をもって終了しました。この最終回の「総括文」を琉球新報社の許可を得て転載します。The international article series Responsibility for Justice: From the World to Okinawa, which lasted for three years since October 2014, concluded with the wrap-up essay by Satoko Oka Norimatsu, reprinted with Ryukyu Shimpo's permission. Below the article is the complete list of thirty four authors.

琉球新報社提供
ここにもう一度筆者全員を紹介します。Here are authors of the series.

1. Satoko Oka Norimatsu 乗松聡子(のりまつ・さとこ)
2. Peter Kuznick ピーター・カズニック
3. Steve Rabson スティーブ・ラブソン
4. Gavan McCormack ガバン・マコーマック
5. Alexis Dudden アレクシス・ダデン
6. Katherine Muzik キャサリン・ミュージック
7. Joseph Gerson ジョセフ・ガーソン
8. Paul Jobin ポール・ジョバン
9. Mark Ealey マーク・イーリー
10. Herbert P. Bix ハーバート・B・ビックス
11. Christine Ahn クリスティーン・アン
12. Catherine Lutz キャサリン・ルッツ
(以上1-12回は『正義への責任 ①』として小冊子発売中。Above 12 articles have been published as Seigi e no sekinin booklet No.1.)

13. Lawrence Repeta ローレンス・レペタ
14. Jean Downey ジーン・ダウニー
15. John Feffer ジョン・フェッファー
16. John Junkerman ジャン・ユンカーマン
17. David Vine デイビッド・バイン
18. Koohan Paik クーハン・パーク
19. Oliver Stone & Peter Kuznick オリバー・ストーン&ピーター・カズニック
20. Jon Letman ジョン・レットマン
21. Roger Pulvers ロジャー・パルバース
22. Choi Sung-Hee チェ・ソンヒ(崔誠希)
23. Sheila Johnson シーラ・ジョンソン
24. Kyle Kajihiro カイル・カジヒロ
25. Dave Webb デイブ・ウェブ
26. Bruce Gagnon ブルース・ギャグノン
27. Kwon Heok-Tae クォン・ヒョクテ (権赫泰)
(以上13-27回『正義への責任 ②』として小冊子発売中。Above 13-27 articles have been published as Seigi e no sekinin booklet No.2.)

28. George Feifer ジョージ・ファイファー
29. Richard Falk リチャード・フォーク
30. Ann Wright アン・ライト
31. Regis Tremblay レジス・トレンブレー
32. Marie Cruz Soto マリー・クルーズ・ソト
33. Tim Shorrock ティム・ショロック
34 - 37. John Dower ジョン・ダワー
38. Satoko Oka Norimatsu 乗松聡子(総括文 a concluding article)

近日、ブックレットの第③巻を刊行予定です。Booklet No. 3 containing above articles 28-38 will be published soon.

ありがとうございました。 Thanks so much,
乗松聡子 (監修・翻訳・執筆担当)
@PeacePhilosophy Satoko Oka Norimatsu (editor, translator, author of Responsibility for Justice series)

Saturday, October 07, 2017

ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派 Myanmar: The Invention of Rohingya Extremists, Joseph Allchin

 ミャンマー・バングラデシュ国境のロヒンギャ難民問題が深刻化している。ミャンマーを追われてバングラデシュ側に流れ込む難民の数が急増しているのだ。
 約3000の仏塔が建ち並ぶバガン仏教遺跡で知られるミャンマーは、仏教徒が多数を占める国だ。その西辺にあるラカイン州(旧アラカン州)には、イスラム教を信仰する少数派のロヒンギャが暮らしている。
 ここに国境を接しているバングラデシュは、英領インドから東パキスタンを経て独立し、イスラム教徒が多数の国だ。ベンガル湾東部の港湾都市チッタゴンの周辺には、仏教を信仰する少数派が暮らしている。仏教発祥の地に近いのはバングラデシュの方で、世界遺産に指定されたパハルプールなどいくつかの仏教遺跡もある。
 陸続きで国境を接するこの地域では、歴史的に様々な民族や宗教が行き交ってきた。ミャンマーもまた、英領インドの一部だった。現在の国境線はイギリス植民地政策の名残という性格が強い。ここから独立した国々は、歴史、言語、文化、宗教を共有する単民族の国民国家を作ったはずだったが、この観念は最初から現実と一致していない。異なる宗教を持つ少数派がある程度の緊張関係を持ちながら共存しているという姿が、どの国にも見られる。
 ロヒンギャ問題が混迷を深める中、バングラデシュ側では仏教徒少数派に対する焼き討ちが発生している。ミャンマーでのロヒンギャ弾圧がバングラデシュのイスラム教徒の感情を煽れば、バングラデシュ側での少数民族問題を悪化させる可能性もある。
 ミャンマー軍政が同国内のイスラム少数派ロヒンギャを国際テロ組織や対テロ戦争と結び付けて迫害している理由の一つは、制裁措置を科していたアメリカ政府との関係改善をめぐる駆け引きだった。このような背景が日本で報じられることは少ない。

ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスのブログ版に掲載されたジョセフ・オルチンの論説を翻訳して紹介する。

(前文・翻訳:酒井泰幸)

原文:http://www.nybooks.com/daily/2017/10/02/myanmar-the-invention-of-rohingya-extremists/

ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派

ジョセフ・オルチン、2017年10月2日


チッタゴンの海岸で銃を手に入れるのは難しいことではない。少なくとも私はそう聞いた。バングラデシュ南部の漁村シャムラプールにある家の外、頭上を覆う樹々の木陰で、私はある男にインタビューした。彼の部下は傍らにじっと立って、彼に紙巻きタバコを差し出し、彼のお喋りに合わせ従順に笑っていた。私の知人が警察と闇の世界の両方に持っていた人脈は、この西部開拓時代のようなバングラデシュ辺境地帯では、世界を動かすのに欠かせないものだ。ここでは密輸が最も大きな収入と権力の源だ。彼はこの地域の新しい現象を反映していた。悲惨にも難民となったロヒンギャが、国境の向こうの祖国ミャンマーでの軍による迫害に異議を申し立てるため、武装抵抗運動を開始する可能性が出てきたのだ。

8月25日に、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)という寄せ集めの集団が暗闇の中から現れ、主にこん棒と山刀で武装して、ミャンマー西部のラカイン州(旧アラカン州)で約30カ所の警察派出所を急襲し、12人ほどのミャンマー人警備員を殺害した。ミャンマー軍は圧倒的な武力と残虐行為で対抗し、民間人を無差別に殺害し性的暴行を加え、村々を焼き払ったと報じられた。それから数週間のうちに、軍は50万人以上のロヒンギャを国境の向こうのバングラデシュへと追い出したが、その口実は、バングラデシュから不法に移民してきて過激派やテロリストをかくまっていると軍が難癖を付けた人々に対し「掃討作戦」を行うというものだった。バングラデシュで彼らが合流したのは、この数年に繰り返されてきた大虐殺とアパルトヘイトのような状況を脱出した、さらに50万人ほどの人々だった。

ミャンマー政府は数多くの民族的反政府運動に直面してきた。たとえば、同国北部の中国に近い国境地帯では、カチン独立軍がはるかに良い装備で反政府運動を戦っている。しかしカチンの人々はキリスト教徒が多く、大規模な民族浄化作戦の対象になったり、信仰のせいでテロリストと非難されることはなかった。違っているのは、ロヒンギャの人々の多くがスンニ派イスラム教徒だということだ。ミャンマーの軍部指導者は長らく、ロヒンギャをアルカイダと繫がった危険なイスラム教徒過激派の第5列に見立てようとしてきた。

このイスラム教徒少数派を「過激派」や「テロリスト」として悪魔化することは、ミャンマーの仏教徒多数派の側にいる国家主義の政治家たちにとっては、役立つものだと分かった。だがこのようにロヒンギャを他者化することは、今や危険な二次的影響のリスクをはらんでいる。それは主に、イスラム聖戦士反政府運動の亡霊を政府が呼び出せば、それが現実化するかもしれないことだ。さらに、辛苦をなめ先鋭化した離散ロヒンギャが、銃剣で脅され国境を越えてバングラデシュに流れ込んだ。そこでは「ヒズブアッタハリール(イスラム解放党)」のようなイスラム過激組織が一般大衆の感情を煽って、ロヒンギャの大義を自分たちの政治目的のために使っている。

ロヒンギャをイスラム教徒テロリストの脅威として描写することには根深い背景がある。ミャンマーが民主制に移行する前の10年間、ミャンマーの情報関係者は「対テロ世界戦争」に好機を見出した。2002年10月10日、サダム・フセインがアルカイダと繋がりを持ち大量破壊兵器を保有しているという偽りの根拠に基づいて、米国上院がジョージ・W・ブッシュの不運なイラク戦争を承認したのと同じ日、米国国務省がヤンゴンに派遣した特使から受け取った電報は、ミャンマー政府から情報共有の希有な申し入れを伝えるものだった。当時ミャンマーには厳しい制裁措置が科されており、ミャンマー全体が国際社会から隔絶されていたので、この協力は極めて希な出来事だった。

ミャンマーが提供した情報によれば、ロヒンギャ連帯機構(RSO)とアラカン・ロヒンギャ民族機構(ARNO)という今は活動していない2つの団体が、アルカイダ工作員と面会し訓練を受けていたとされていた。この外電は、2つのロヒンギャ団体がタイ国境に本拠を置く他のビルマ民族反政府団体との関係を構築しようとしていたことも報告していた。米国大使館が確信していたのは、ミャンマー将官らの望みは「(対テロ)最前線で協力して功績を認められることで米国との関係を下支えする」ことにあり、アルカイダに援助を求める団体との関係を理由に他の民族的反政府団体の評判を傷つけようともしていることだった。民族的反政府団体の多くは軍に対して共に闘っていたので、民主化活動家と親密な関係にあった。歴史的にミャンマー国軍は、反対勢力や権利を剥奪された少数派を弱体化さるため、分割統治戦術を使ってきた。

だが、ロヒンギャ団体がミャンマー国内での作戦のためにアルカイダとの関係を構築できていたという証拠は全くない。オサマ・ビンラディンと面識があったと噂されるロヒンギャの一人、サリム・ウッラーという活動家は、こう私に語った。ミャンマーでイスラム教徒が銃を取ればテロリスト扱いだが、仏教徒がそうすれば自由を求める叫びを上げていることになる。ロヒンギャに対する偏見が、他の民族的武装団体を支持する多くの人々や仏教徒多数派の中に植え付けられた。多くの元民主化活動家でさえ、軍がロヒンギャ全体をテロリストと呼ぶことを認めた。

多数派とイスラム教徒少数派の間の緊張を、ミャンマーの超国家主義的な仏教僧が、さらにかき立てた。この敵意が国外のイスラム教徒からネット上の反応を誘発した。アルカイダ傘下の団体や他のイスラム聖戦士運動は現在、自分たちのイスラム教徒迫害の物語を広めるために、ロヒンギャの窮状を利用している。

最近まで、このような聖戦士プロパガンダのほとんどは、ミャンマーで多くのロヒンギャイスラム教徒が昔から暮らしてきたアラカン州の「解放」を非現実的な目標ととらえ、それは隣国バングラデシュを「征服」し、そこにカリフ政権を樹立したら考えることだと見ていた。だが今は、アルカイダのような団体がもっと直接的にロヒンギャの大義を支援しているようだ。9月半ばのアルカイダの声明は、「バングラデシュ、インド、パキスタン、フィリピンの全ての聖戦士兄弟たちに、ビルマ(ミャンマー)に向かって旅立ち、イスラム教徒の兄弟たちを助ける」ように呼びかけた。

ロヒンギャ反政府団体が外部のイスラム聖戦士団体と同盟を結んだという兆しはまだない。じっさい、ARSAは3月にアラビア語の名前を廃止して、より世俗的な響きを持った英語の名前への変更を決定したが、これはARSAが多国籍イスラム教徒過激派組織に取り込まれていないことを示すものだ。この団体のカリスマ的指導者アタ・ウッラーは、パキスタンとサウジアラビアの両方に人脈を持ち、アルカイダ指導者のアイマン・アッ=ザワヒリが匿われているとされるパキスタンの港湾都市カラチで育った。だがARSAには能力も武器もあまりないことから明らかなように、アタ・ウッラーがいくらラシュカレ=トイバやタリバンのような団体から支持を得ようと努力しても、現在のところ実を結んでいない。

しかし、掃討作戦や大量のロヒンギャ民間人が集団脱出したことへの怒りが大きく盛り上がったので、この状況は変化するかもしれない。すでに、エジプトの過激派がカイロのミャンマー大使館で爆弾を爆発させた。バングラデシュの対テロ責任者モニルル・イスラムは、私がシャムラプールで接触した男が語ったのと同じことを繰り返した。「銃は手に入る。ミャンマーやインドからバングラデシュに密輸されている。」AK-47の模造品はブラックマーケットで1000ドル少し出せば買うことができ、ピストルなら200〜300ドルだろうとモニルル・イスラムはいう。武器の出所を突き止める努力が、過激派団体を現地情報機関の監視の下に引き出すだろう。バングラデシュではこのような運動は注目を避けるため有力者の支援に頼ることが多い。

バングラデシュ人イスラム教徒は、この危機を信仰と不信仰の2つの力による預言された壮大な紛争として描き、ロヒンギャの窮状を積極的に利用しようとしてきた。ARSA自体はこの反乱にバングラデシュ大衆の支持を得ようともしてきた。じっさい、ロヒンギャ支援には幅広い合意が形成されたが、以前は自分勝手な侵入者として無視されていた。バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が示した慈悲心は、大きな喝采を受けた。イスラム教徒が大義に飛びついた声の大きさを考えれば、彼女の動きは政治的に必要だったようにも見える。

ARSA司令官と噂される人物が最近このように主張した。ミャンマー軍が「我々を毎日拷問にかけていたので、他に選択肢はなかった。だから我々は(8月25に)行動を起こした…。こうなることを我々は分かっていた。」不可避の紛争と存在をかけた闘いというこのメッセージは、多くのロヒンギャの人々に共感を呼び起こした。私がバングラデシュ南部でインタビューした女性でさえ、できるなら戦うと、私に促されるでもなく言った。彼女たちの手には何も残されていないのだ。ARSAが宣言した1カ月の停戦は10月10に終わる。ARSAは低強度の攻撃を再開する可能性が高い。もしそうなれば、今もミャンマーに残るロヒンギャの村人たちは、軍からのもっとひどい実力行使を覚悟しなければならない。

ブッシュ政権の見当違いの対テロ戦争が世界中でイスラム急進思想を助長したように、ミャンマー将官たちがロヒンギャ反乱者と国際イスラム聖戦士団体とのほとんど空想上の関係を意図的に誇張したので、同様の望ましくない結果になるかもしれない。もともとミャンマー軍は他の反政府・民主化・民族団体との同盟を防ぐため、歴史的な恨みを刺激してロヒンギャ反乱者とは分断しようとしてきたが、この政策の結果として、ARSAであれ、もっと恐ろしい怒りの表現の形であれ、ロヒンギャの闘士たちを本当の過激派の手中に追いやるだろう。

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筆者:ジョセフ・オルチンは『エコノミスト』と『フィナンシャル・タイムズ』などの出版物でベンガル湾地帯を取り上げてきたジャーナリスト。近刊書『Many Rivers, One Sea: Bangladesh and the Challenge of Islamist Militancy(多くの川、一つの海:バングラデシュと好戦的イスラム教徒の挑戦)』の著者。